思考遍歴

19歳

『有罪者』評

 バタイユの寡黙を私は愛してきた。かれの沈黙はすなわち夜の静けさなのだ。存在の揺蕩う静寂において《何者でもない》の沈黙を聞き分けること。それこそが『有罪者』に流れる音楽なのである。私はこの音楽を万事において求めてきた。

 饒舌には歌い得ぬ音楽がある。その音楽は沈黙によって友愛を歌い上げる。結局のところ友愛なくして沈黙はありえない。沈黙には沈黙の語りがある。文脈の脱落する内奥においてしか捉えられない文脈がある。それを敏感に聴き取りその瞬間の不可能を理解すること。この不可能を知らずしてバタイユの友愛は語り得ないことだろう。

 我々とは《諸世界の底》において連帯する《何者でもない》人間のことである。そこには無限の可能性がある、無限の不可能を背後にして。

黙想

 なんというか、30歳やら40歳にもなると、脈絡の無い生き方というのが難しくなってくるようだ。どれほどぶっ飛んだ言行を繰り返そうが、どこか拭いきれない倫理観がある。それは外的に規定される私が、内的に規定される私とに生じる齟齬を、無意識か有意識で認めていくということなのかもしれない。
 バタイユの『有罪者』が好きでよく読むが、わざと散らした文脈の中に、散らしきれなかった哀愁が感じられて、それがこの本を悲愴たらしめているように感じる。例えば、この本にロールのことがあけすけに書いてあったらば、そこまで悲しい書物にはならなかったかもしれない。或いは、アセファルの企てが潰えたことが書いてあったらば。────この本は形骸したものの声として私の耳朶をうったのだ。
 氏(伊藤計劃先生)がポストモダンを捨てたのは30代の初めのことだった。私は、氏が形骸化したものに辟易したものだと思っている。「From the Nothing, With Love.」を読むまでもなく、『虐殺器官』を読めばわかることだ。あれはポストモダンへの訣別の書ですよ。
 何かを持つには早すぎ、何かを持たないには遅すぎる、そんな時期が人生にはある。それから免れることは、まずできはしない。

 それとも、18歳の若造がこんなことを言うのは癪でしょうかね。

肉の言い分

肉だ、と心の一部が言っている。肉の言い分だ。無視しちまえ、と。
ウィリアム・ギブスン,黒丸尚訳,『ニューロマンサー』,早川書房,1986年,289頁)

 『ニューロマンサー』の肉体性について語ってみる。

 脳-身体という野卑な二元論を『ニューロマンサー』へそのまま応用すると、ギブスンは「電脳空間」に代表される「脳」について語りながら、その実、「膚板」「リンダとの関係」に代表される「身体」について語っていることが分かる。それこそ伊藤計劃は、ギブスンの流行に絆されない冷静を「ガーンズバック連続体」でもって評価したわけだが、『ニューロマンサー』にもまた同じ評価を当てはめることができるだろう。つまり、脳化社会(=情報化社会)がどれほど進行しようと、肉体を無視することはできないのだ。いや、出来るのかもしれない。ありったけのアパシーを弥終に。
 いずれにせよ『ニューロマンサー』の先見性は、SFガジェットの使い方に留まらず、「肉体の再発見」という事件無しには語りえないように思われる。その点で、電脳三部作は「いま、ここ」の物語だと言うことができるのではないだろうか。

 何が言いたいかというと、Vtuberのお弁当箱とは「肉の言い分」であるということです(放言)。

ゲームの都市

 「人生」というゲームが存在する。ゲームシステムは極めてシンプルだ。まず数字の書かれたカードを用意し、一枚ずつ提示する。我々はその時々で取捨選択をし、相手より大きな数字を手にしたら勝ちだ。それでは、54、97、2、36、────

 

 小川哲先生はそもそも「ギャグ的なシリアス」と「シリアス的なギャグ」の使い手であって、「東京というゲームが存在する」という主張は、それこそちょっとしたおふざけ程度に受け取るのが適切である。実際『異常論文』に収められた論考「SF作家の倒し方」を一瞥すれば、小川先生がどんなアイロニイの持ち主かがお分かりいただけるであろう。もちろんその「東京というゲーム云々」の後続が本当に「警鐘を鳴らす!」である可能性を俄に否定こそできないが、恐らくそうじゃないだろうというのが私の自論である。というのも、『ゲームの王国』における「人生」というゲームの扱われ方を見てみれば、彼がどれほどゲームの扱い方に慎重か見て取れようというものだから。

 

 というわけで誰かがTwitter上で「人生というゲームが存在する。一番大きな数字を引けば勝ち」というのを私は待ち望んでいる。それが作品愛ではないんかしらん、と。

I’m afraid of ANIME.

TELEVISION

 高校生になってからというものの、アニメをめっきり見なくなった。というかテレビを使わなくなったのだ。活字狂になってしまったからだろう。

 今ではテレビの前に立つ、というだけでもかなり勇気の要ることになりつつある。テレビはいつも見ないから、シームレスに「アニメでも見るか」という精神回路にならない。むしろ、面接に挑むようにして「見るぞ」と心を奮起させなくてはならない。

 何が言いたいかと言うと、アニメ自体が悪いのではなく、テレビそのものが重圧になりつつあるのだ。
 見ようという考えにならないから、そもそもテレビがつかない。そうして、テレビを見ることはより意識的になってしまう。
 だから、リモコンを握るとき、いつもこう言われるようだ。「見なくてはならない」と。

 そういうわけで、祝祭と労働が逆転してしまった結果、私はアニメを見なくなった。私のアニメ学歴は「イド・インヴェイデッド」で終わっている。一言でいって、オタクを失格している。

 最近のマイブームは、蓮實重彦フーコードゥルーズデリダ」です。