思考遍歴

21歳

愛すべき人に奢ってもらうということ

 父親と焼き鳥屋に行って、色々と話をした。前聞いたよそれ、と言ったり、やっぱり父さんのころから世代論って(本質)変わんないよね、とか、福岡って容赦ない土地だよね、とか言ったりした。それに対する返答はちゃんと覚えている。息子と酒が飲めるとはなあ、と父親は言った。その背後には家族しか知らない様々な困難があった。そして知る以上のことがたくさんあった。回り道をした。きっと長い回り道だった。まだその途中ではあるけれども、何かが終わりを迎えつつあった。それは確かだと思う。

 とはいえ、父親のペースに乗せられて熱燗を飲んでいると、さすがに酔っ払った。(理性はあったが身体の動体感度が明らかに倍加していた。)甘露、甘露、と殿様が言うだろう。老人は甘い酒を好むんだ。若い頃は辛い酒を好むがね。叔父さんは熱燗が好きだった……云々。

 そして会計の段になった。私は咄嗟に、財布を出そうとした。良い良い、と父は言った。ある種の罪悪感から私は払おうと思ったのだが、さすがに顔を立てるべきと思って財布を収めた。会計額は相当なものだったが、それでも父は払ってくれた。ふと、お金で手に入るのは自分で手に入れられないものだ、という佐藤究の言葉を思い出した。交換できないものは価格がつき、交換できるものは価格がつかない。ひとはかけがえのないものにこそ金を払うんだ。私は自分の教育に投じられた金に罪悪感のようなものを最近感じていた。だが、その金はかけがえのないもののために払われたのだった。私は初めから一人の人間として認められていたのだ。(でなければ金を払いはすまい。)私は、父と一緒に焼き鳥屋を出た。そして父に導かれるようにして大通りへ出た。歩いて帰るか、と父は言った。私は、そうだね、と言った。一緒に帰ろう。

荻堂顕作品についての備忘録

 荻堂顕は、ずっと一貫して紛い物と本物の話をしている。『擬傷』はそれこそ偽物の身分を生きる人間の話であり、偽物の世界を架空する話でもある。『ループ・オブ・ザ・コード』は伝統や正統の断絶した偽物の国家(偽物のアメリカ)が舞台である。『不夜島』もまた偽物の身分を生きる人間の話であり、こちらは本物の記憶のために身を投じる話である。『飽くなき地景』は言うまでもないが、正統と嫡子という対立を軸に紛い物の魔力を巡る物語である。『いちばんうつくしい王冠』は、友人を裏切った紛い物の私が、舞台演劇を通して素直さや美徳を取り戻していく話である。かれらが追い求めるのは真実というよりも、真正性である。あるいは、それを経由して得られる、身の程に合った偽物としての生である。
 荻堂顕作品の見苦しいところも、そうしたところから派生するのだろう。例えば、職務遂行に徹しきれない煮えきらなさ(『擬傷』『不夜島』)。これらでは「真正さが私を救済するはずだ」という安易な貪欲が職業倫理を犯している。ただ、こうした公私混同は『飽くなき地景』においてはあくまで職務遂行の枠に収まっており、また『いちばんうつくしい王冠』では不可視化され物語のツイストになっている。(『ループ・オブ・ザ・コード』における私生活はかなり淡泊なのでそもそも公私混同しても見苦しさの生じようがない、と判断している。)
 私としては、ここで対置すべき作家は佐藤究だと思っている。荻堂作品において、公私は日本的なそれ──つまり私生活を「公然の秘密」として下位に擁立する姿勢──に則っているが、佐藤作品において、公私は大陸的なそれ──私生活がまずありそこから理念的秩序的な「公」を想定する姿勢──に則っている。もっと簡単に言えば、荻堂顕は露骨な欲望を社会の側から観照している。それゆえ、主人公の貪欲さが単に俗悪なものと映りやすいし、閉鎖的な響きを持ちやすい。逆に、佐藤究は社会を露骨な欲望の側から観照している。それゆえ、主人公の貪欲さが資本主義社会の一つの縮図として映りやすい(し、話自体もキリスト教的な秩序を眼差して終わりやすい)のである。extraordinaryに対する受け取り方が違うのだ。佐藤究は明らかにそれをordinaryの内部に見ている。荻堂顕はそれをordinaryの外部に見ている。凡庸さが宿るのは結果ではなく過程そのものであるということを理解していないのだ。だから、非凡なトピックを扱いながら、内容自体はずっと平凡な話に落ち着いてしまっている。
 とはいえ、荻堂顕は変わりつつある。事実、『いちばんうつくしい王冠』の凡庸さは、私にはとても革新的に映った。かれはうんざりするほどの参考文献を押しのけ、愚直に子供たちの話をしようしていたのだ。それはかれが、凡庸なトピックを通じて、自分の語りの凡庸さと向き合い始めたということではないだろうか。
 かれの最新作はデスゲームであるという。かれはそこで、社会の私を語るのだろうか。あるいは、私の社会を語るのだろうか。──ただただ楽しみな作家である。

劇場版レヴュースタァライトを観た

 まず演劇であること。次に成長譚であること。そして最後に映画であること。
 決してありのままに演技を受け取らず、また演者に自己投影しないこと。それでいて決して、演技を単なる演出として受け取らず、彼女たちを舞台装置として見なさないこと。なぜならこの舞台には、満ち満ちるほどの私情と、それを先回りする舞台装置とがせめぎ合っているからだ。そしてそれらは、強固な共犯関係を結んでいるからだ。例えば──これらの私情はあまりにも一回性に満ちていて、これらの舞台はあまりにも再現性に満ちている。──恰も全てが偶然のようで、それでいて、恰も全てが仕組まれているかのようだ。
 私ははじめ、これが全て舞台演出だと思っていた。縁切りは絶えず演じられ、そのたびに彼女たちはこれが初めてかのように涙を流す。だが、本当にそうなのだろうか。これは巧妙に演じられた私情の劇なのだろうか。あの「本当の台詞」は、「煌めき」は、「最後の台詞」は、何度も演じられてきたものなのだろうか。もしかするとそうなのかもしれない。なるほどこれも「賭け」なのかもしれない……周到に構築され、再現されながら、それでもなお離別の一回性という奇跡にこだわり続ける物語……
 舞台の上ではどんな奇跡だって起こりうる。であれば、本物でありつつ紛い物であるような惜別もまた、そこでは可能だと考えるべきではないか。

『オーバーヒート』あるいは煮え切らないパトス

 千葉雅也『オーバーヒート』を読んだ。表情と感情が乖離してしまった人間の話だと思った。泣いてはいるが悲しんではいない。申し訳なさそうに振る舞うが罪悪感はない。情けなく敗北するが羞恥するわけではない(この真偽は微妙だが)。こうした行動と感情の乖離はその都度扱われ、その度に哀しいくらいの面の厚さが描き出されていく。その面の厚さは恐らく言葉の厚さ、あるいは社会や他者からの眼差しの厚さなのかもしれないが、ややこしくなるので「そうかもしれない」と言っておく。いずれにせよ、この凡庸な面の厚さは終わりの終わりまで剥がれることは全くない。この物語の奇妙な清々しさは、そうした面の厚さの上に成り立っている。動揺はするが、動揺しているわけではない。涙は出るが、哀しいわけではない。スピノザ的な静観、あるいは骨相学的判断(表情=感情表現)に至れぬ生真面目さ。そして「見抜かれるな」という警句のもとに、「見抜くものなんてない」と偽装工作を繰り返し、実際見抜くものなんて何もないというスタイリッシュな無意味さ。「正直言うと」という言葉はいくら勘繰ったところで言われなかったものの偽装という意味しか持ち得ないだろう。そしてこの話は、「正直言うと」と言いつつ正直さに至ることはない。いや、ちょっとは正直にはなるのかもしれない。だがまあ嘘を繰り返してきた文章なのだし、正直に語ることは実のところ無理なのかもしれない。ただ、それでも、この行動と感情の奇妙な遅延を繋ぎ止めたいという優しい情熱がこの作品のピリオドを打っている、そんな感じがする。

 言いたいことが纏まっているようで纏まっていないが、この作品は、自分語りしている割にそこまで正直には聞こえないという奇妙なねじれがあり、それでそのねじれはふとすると行動の空々しさ、嘘っぽさ、言葉の身勝手さに繋がりかねないのだが、それを押し留めるべく作者は「僕」を行動と感情が奇妙に遅延した人間として描き出し、またそれが極度な鈍感さと取り間違えられないように気を配るという、妙な工夫を凝らしていて、それがとても面白かった。私自身、こうしたズレ(他人や社会との「ズレ」ではなく自分の行為と自分の内面とのズレ、もっといえば慰めの言葉と空々しい響きのズレ、ぶっちゃけると差延)はよく感じることだったので、ふむ、そういう掬い上げ方もあるのかと勉強になった。

 

 根性丸出しで、とかつて小林秀雄は書いた。そういう語りは、実のところ根性丸出しではないからそう書くのであり、端的に嘘であろう。しかしそういう(厳密に身相応ではない)スタイルを遂行することによって、かれは自らを偶像化したのだ。正直に語ろう。実のところは。本音を言うと。真面目に答えるなら。「それなら仮面を被り語り合おう」とカリギュラは言う。この仮初の劇場の上で。「俺は矛盾してみたい」とカリギュラは言う。この仮初の世界の中で。それから言葉が燃える、この仮初の告白の中で。

詐欺師と詩人についてのアフォリズム

 東浩紀が最近の動画で「本質論を極めると例えば生は死への本来的な覚悟を本質とするのだから人は死に向かうべきという倒錯の論理が出来するわけで本質とは罠の謂かもしれない」と言っていた。ここで思い出すべきは「骨相学的眼差し」、つまりは脳みその量がそのまま人格の貴賤に直結するとして表層=深層(本質)を前提=結論とする思考法である。これは例えば心理とか内面とかどうでも良くともかく行動だけが全てというような司法的で狂信的な思考である。だがこれは嘘ではなかろうか。錯覚が本質への到達し損ねなどではなく本質の表現そのものなのだとすれば、錯覚は間違っているように見えても、やはり本質に向かっているということになるのであって、行動が本質的ではないからと言って裁くのはむしろそれによって担保される本質なるものを見逃すことになる(これはカントやフロイトが仮象ひいては否認において弄したトリックと酷似している)。つまり本質が合目的的である必要などというのはどこにもない。つまり我々は佯狂者であることが可能である。

 詩から追放された詩人は詐欺師でしかない。「私のダイモンは沈黙してしまった」と気づいたら砂漠で商いを始めるべきだ。だが現代はそこそこ商業的でそこそこ詩的であることが許されるため、無自覚に詐欺を働くことができるのだった。……はっきり言うが、小林秀雄が莫迦ではないのは自分が詐欺師だと明確に理解していたからだ。小林が「逆説でしか真理は語りえない」と書くとき、かれは錯覚の上に詐欺を聖化しようとしたのであり、そのことを取り逃すと「批評の神様」などという妄言が最もらしく聞こえるというわけだ。

 ポストモダンにあって信用問題は二次的なものとなり数々の美しい詐術が生まれた、だが彼らも詩を信じていなかったわけではない。

 分からないということが分かるのは天才で、逆に分かるということが分からないのは崇高である。崇高な天才を俺は愛する。

知人の死んだ鳥のために

 鳥が死んだ。机上から鳥籠は無くなり、代わりに無愛想なディスプレイが置かれている。そもそも机も新しいものに買い直されていた。私はその机上にパソコンを据えつつこうして文章を書いているが、何かを追悼しようという気があってのことではない。
 「空の深み、失われた空間は、死を前にした歓喜である。すべては深く割れている。」(ジョルジュ・バタイユ「死を前にした歓喜の実践」)
 鳥が空に舞い上がるのを見て自由を感じるのであれば、その人は希死念慮を口にしているも同然である。いつかコンラッドも言っていたではないか────「かれは大地を踏み砕きながら飛翔した」と。鳥はその一振りごとに場所を打ち砕き、空間を創造する。鳥に住む場所がないのは当然である。鳥籠は鳥の住処では決してない。そこは初めから空っぽであり、終わりもまた空である。ところで、emptyとskyとが日本語では全く同じ漢字であることにどれほどの人間が眩惑を覚えただろうか?
 もし我々が鳥の固有空間を考えるのであれば、音楽の所有について考えなければならない。我々は音楽の所有することはできないが、共鳴することは出来る。どのようにして? 耳骨の揺らぎ……、鼓膜の震え……、可視光は決して目において共鳴しない……、共鳴するのは、膚と耳だけだ。共鳴は無数の存在論的差異を胚胎する。
 鳥はいったいどのようにして飛翔と墜落とを弁別するのだろうか。私たちは立ちながらにして崩れ落ちることができる。あるいは立ちながらにして飛翔することができる。レヴィナスの疲労は立ち尽くすことの発展形である立ちながらの落下について深い示唆を与える。バタイユの歓喜は立ちながらにして飛翔することについて深い示唆を与える。それが一体何だというのか。それこそが存在するということなのではないか。
 立つことによって私たちは足裏を簡単に領土化してしまった。非常に愚かなことである。私たちはその実どこにも立っていない。河村悟が詩人を一本足として描いたのは非常に正しいことである。もう一本の足はどこにも立っていない。いや、無の上に立っている。流砂の上に溺死者の光……
 人畜生たちはラリっている。そういうことで社会が幾分かマシになる訳ではないけどやっぱり人畜生たちは狂っている。だがしかし鳥たちもやはり狂っている。
 思い出せば無数の人の群れ。交差点を行き交う他者。陽炎に茹だる鳥の影。失神しそうなまでの窒息感。私はさっきから叫びたくてしょうが無いのだと理解する。
 鈴木創士、神戸の賢者にして最大の恩師は次のように述べる。「天使とはこの風の変異である。」(『芸術破綻論』)
 その鳥の名前はブランと言った。
 私は風がないことをこの上なく哀しんでいる。

予感をたぐり寄せる

・透明な社会の病弊
 透明な社会は非人称的である。つまりは純粋にシステムで運用される社会である。そこでは各人が役割を見いだすのではなく、役割が各人を見いだす。そういうわけで、役割は表面的なものとして、役割を与えるシステムは深層的なものとして理解されるだろう。そして我々が見ることの出来るのは、役割の流通である。透明な社会では、肩書きやレッテルや名前や記号といった所与[data]が絶えず交通する。それらの価値は、システムにおける妥当性/有用性によって担保されている。それゆえ、多くの所与は私にとって他人事である。腹が減ろうが、研究職に進もうが、社会的体裁のために自ら縊れようが、やはり他人事なのである。
 何の話か。主体性は所与の中にはない。所与と関係する仕方にあるということだ。そして、引き受ける仕方を知らない人間は、そもそも万事が他人事である。国語の教科書にも「I was born」とあるように生自体が所与である以上、自分の生命活動とは他人事なのである。だが、私という意識はこの生命活動抜きでは成立しないため、便宜上「この脳みその中に私がいる」と言う。そうして、私は自分自身を人質として差し出すのである。誰に? 社会に。
 こうしてみると、私の原初の拘束とは「魂が肉体の中に拘束されている」という事態なのだと分かる。この不愉快な肉体の中、有限でしかない身体の中に、この私が埋没しているというのは、なんとも陰惨な事態ではなかろうか。そして高邁な精神にとってこの人生は、死を回避するゲームであり、そしてやがては死に至るゲームである。つまり人生とはデスゲームである。それはグノーシス的な視座を伴った、無垢なお遊びである。
 注釈する。────こうした思考は態度表明にすぎない。つまり、何か有益な結論などを引き出しはしない。自分の傷が癒えるわけでもなく、他者の傷が癒える訳でもない。だがこの視点を失えば、精神の重要性と、社会の有用性とを上手く弁別できないだろう。
 更に注釈する。────社会が「主体性」を貴ぶのは端的に不愉快である。なぜなら主体は私のためだけにある。主体は私という精神にしか拘束されないのであって、社会に拘束さるべき代物では決してありえない。「私は自分自身を階にして登る」とツァラトゥストラも言っているが、全く以て同意である。