思考遍歴

19歳

肉の言い分

肉だ、と心の一部が言っている。肉の言い分だ。無視しちまえ、と。
ウィリアム・ギブスン,黒丸尚訳,『ニューロマンサー』,早川書房,1986年,289頁)

 『ニューロマンサー』の肉体性について語ってみる。

 脳-身体という野卑な二元論を『ニューロマンサー』へそのまま応用すると、ギブスンは「電脳空間」に代表される「脳」について語りながら、その実、「膚板」「リンダとの関係」に代表される「身体」について語っていることが分かる。それこそ伊藤計劃は、ギブスンの流行に絆されない冷静を「ガーンズバック連続体」でもって評価したわけだが、『ニューロマンサー』にもまた同じ評価を当てはめることができるだろう。つまり、脳化社会(=情報化社会)がどれほど進行しようと、肉体を無視することはできないのだ。いや、出来るのかもしれない。ありったけのアパシーを弥終に。
 いずれにせよ『ニューロマンサー』の先見性は、SFガジェットの使い方に留まらず、「肉体の再発見」という事件無しには語りえないように思われる。その点で、電脳三部作は「いま、ここ」の物語だと言うことができるのではないだろうか。

 何が言いたいかというと、Vtuberのお弁当箱とは「肉の言い分」であるということです(放言)。